グリーンクリニック 十日市中,三次市 内科(訪問診療)

当院について

院長挨拶

グリーンクリニックを平成23年5月10日に開業しお陰様で今年5月に開業5周年を迎えました。
在宅医療に重点を置き「ケア志向」「ナラティブ(ものがたり)重視」などの理念で診療を続けています。
医師一人の体制のためキャパシティがなくこれまで積極的に広告や宣伝はしてきておりませんでした。
医療機関を通じて紹介された患者さんやご家族から「こんなクリニックがあったなんて知らなかった。」と言われます。
開業5周年を期に「本当に必要な人」に伝わるようにホームページを開設することにいたしました。
長々とした文章となってしまいましたが、ご家族の介護で悩んでおられる方には当クリニックの「診療方針」を是非ともご一読いただければと思います。
同じ考えの方の診療のお申込みをお待ちしております。


平成28年8月吉日
グリーンクリニック院長 
福山 耕治

 

所属学会・認定医など

  • 日本プライマリ学会 認定医
  • 産業医

経歴

 H14年  島根医科大学医学部卒業
 

当院の紹介

診療方針

 

① 早期発見・早期治療からの
② ありのままを受け入れる
③ 苦痛の緩和(薬や処置だけでなく声掛けやスキンシップも)
④ 「おうちに帰ろう。」

 

早期発見・早期治療からの脱却

近年「地域包括ケア」などという言葉が声高に叫ばれ在宅介護・在宅医療を推進する気運が高まっています。私の経験でも在宅介護はいろいろな選択の中で可能であれば最上の選択だと思います。しかし、経済的な事情など様々な理由により困難なケースもあり実際には選択されにくい現状を見てきました。今このホームページを見ながら在宅介護をしようかどうか迷っている人もいるかも知れません。

ではなぜ在宅介護は敬遠されてしまうのでしょうか?
「急変した時にどうしてよいのか分からない。」
「夜間や休日に具合が悪くなったらどうしよう。」
という意見が多く聞かれます。急変時の対応が心配という意見です。

 

「早期発見・早期治療」という考え方があります。
がん医療・高度医療・救急医療においては救命率や社会復帰率を高めるために最も大切です。この考え方から救急指定病院や夜間休日医療センターがあり夜間でも休日でも24時間の診療に対応しています。

 

しかし、この考え方を「要介護状態の高齢者」に当てはめていくと大変なことになります。
要介護状態の高齢者に急変はつきものですし更に認知症などがあれば訴えが分かりにくかったりおかしな訴え方だったりして判断に迷うこともあります。
介護施設の中には治療機会損失の責任や注意義務違反の責任を問われないように「何かあったらすぐ受診」を徹底して行っている施設を見受けます。

誰しも長生きはしたいものです。
現代の高度医療の恩恵にあずかりたいと思う気持ちもあります。最先端の治療・新薬・スーパードクター・健康食品…、テレビで新聞でインターネットで情報を目にすると「今までダメだったものが何とかなる。」という気になってきます。日進月歩で進む医療技術で老いも病もそして死さえも「何とかなる」ような期待を抱いてしまいます。

その一方で現実は決して甘くありません。
多少の「先送り」ができたとしても老・病・死から逃れきれるわけではありません。咳一つで救急受診するくらいに早期発見・早期治療しても誰も200歳まで生きられないのです。○○大附属病院の医師団がついていたとしても無理です。
 

介護者は、現代の進んだ医療に甘い期待を抱きながら、「早期発見・早期治療」のプレッシャーを感じながら、現実の厳しさに驚きながら介護を続けています。臨床の現場で常に感じることはこのような現代的な混乱です。冒頭の「急変した時にどうしてよいのか分からない。」「夜間や休日に具合が悪くなったらどうしよう。」という不安はまさにこのような現代的な混乱の一端と言えます。

 

小児や若者あるいは働き盛りの人においては早期発見・早期治療が最も重要であることは疑う余地がありません。しかし「要介護状態の高齢者」となると話が違ってきます。たとえば検査の必要性などが理解できず拒否されることが往々にしてありますし、そもそも検査や治療を受ける体力がない場合や仮に治療まで受けることができたとしてもその後の経過が思わしくないこともあります。無理やり検査・治療をした挙句に経過が不良となると目も当てられませんし、第一、嫌がる患者さんに検査・治療を強要すること自体ナンセンスと言えます。要介護状態の高齢者に限らず入院や侵襲的な検査・治療には精神的ストレスや身体的な負担が伴います。「要介護状態の高齢者」の場合、早期発見・早期治療だけを考えていては却ってご本人を苦しめる結果を招いてしまいます。

 

ありのままを受け入れる

ではどうすればよいのでしょうか?
グリーンクリニックでは担当する一人ひとりの患者さんごとに無理のない範囲での検査・治療を介護するご家族と一緒になって考えながら診療していきます。この無理のない範囲での検査・治療というものは患者さんごとに違いますし同じ患者さんでも時間と共に変化していきます。大切なことはそのときそのときできちんと考えることだと思います。そして状態によっては無理のない範囲での検査・治療を考えた結果、「検査・治療を何もしない」という場合もあります。

この「検査・治療を何もしない」ということは真の意味で「何もしない」ということではありません。早期発見・早期治療だけを考えているとあるいは現代の医療に期待を抱いていると「検査・治療を何もしない」は「何もしない」と同義になりますがそうではありません。「検査・治療をなにもしない」ということは「何もしない」のではなく「ありのままを受け入れる」ことであり「苦痛の緩和を行う(ケアを行う)」ということです。

「ありのままを受け入れる」ということは一見簡単そうに見えて実は難しいことです。自分自身の容姿や性格あるいは家族でさえ「ありのままを受け入れる」ことがなかなかできないのが現実ではないでしょうか?まして自分のあるいは家族の老・病・死はもっと難しいと思います。そして「ありのままを受け入れる」ことができないでいることはとてもつらいことです。

私は癌や老衰などの終末期医療に携わるなかで「ありのままを受け入れる」までの過程を見てきました。受け入れ方はさまざまです。最初から受け入れられる人やすんなりと受け入れられる人もいます。途中から突然受け入れられるようになる人もいれば悩みながら最後に受け入れる人もいます。そして最後まで受け入れられない人もいます。

自分のあるいは家族の老・病・死を目の前にして、どうすれば「ありのままを受け入れる」ことができるのでしょうか?
それまでの人生経験あるいは宗教的な信仰心などで最初から受け入れられれば問題ありません。しかし、現代を生きる大多数の人、特に介護をする側の若い世代は老・病・死を目の当たりにする機会がほとんどなく全く初めての状態でいきなり深刻な問題と直面してしまいます。

 

私はまず「早期発見・早期治療」という文脈から脱却することが必要だと思います。老・病・死は前述したように早期発見・早期治療では解決しません。多少の先送りができたとしても逃れきれるわけではありません。この事実は冷静になって考えれば当たり前のことですが世間では余り強調されません。逆に医事紛争などで治療機会損失や救命期待権などの言葉で「早期発見・早期治療」が声高に叫ばれます。今では沈静化していますが一時期医療裁判が盛んに行われた時期があり、高齢者医療の現場あるいは介護の現場でも「早期発見・早期治療」が金科玉条になってしまったのではないかと思います。

もしも、介護者も医療者も「要介護状態の高齢者」の「早期発見・早期治療」の責任を負わないといけないとしたら大変なことになります。高齢で衰弱しているため急変しやすくなおかつ治療に対する反応も期待しにくいでしょう。賽の河原で石を積むようなものです。最終的に死なない人はいませんので結果責任などというものを追及されると更に大変です。患者さんの容態の悪化や死は一体誰のせいなのでしょうか?誰の責任なのでしょうか?それは誰のせいでもありません。自然の成り行きとしか言いようがありません。残念なことに高齢者医療の現場や介護の現場で誰のせいでもない急変の「早期発見・早期治療」の責任が強く意識されているのが現状です。
 

苦痛の緩和(薬や処置だけでなく声掛けやスキンシップも)

繰り返しになりますが「要介護状態の高齢者」に必要なのは「早期発見・早期治療」ではなく「ありのままを受け入れる」ことと「苦痛の緩和を行う(ケアを行う)」ことです。たとえば要介護状態の高齢者の急変は「寿命が近づいてきた兆候」として受け入れるべきものなのです。そのうえで無理のない検査・治療を行いながら苦痛の緩和を行う(ケアを行う)ことが重要です。

無理な治療を行わずケアを行うという考え方があり「ケア志向」という言葉で表されています。ここでいうケアとは日常生活活動が低下したときに移動・排泄・清潔・着替え・食事などの介助(生活の援助)を行うことや声掛けやスキンシップで精神的な支援を行うことなどを指します。苦痛の緩和には解熱剤・鎮痛剤を使用するといった薬物治療や酸素を吸入したりするような処置も必要ですがそれだけで苦痛が緩和できるというものではありません。薬物治療や処置と同じかあるいはそれ以上にケアが重要です。たとえば、患者さんにとって楽な体位を取るといった身体的なケア、「大丈夫。そばにいるよ。」といった声掛けや手を握ったり肩をさすったりといったスキンシップによる精神的なケアが必要です。

なぜ私がこのように「ケア志向」などという言葉を強調しなければならないかと言うと、それはとりもなおさず現代が「治療志向」に偏向しているからです。高齢者の状態悪化に対して検査・治療が強く求められる社会に疑問を感じるからです。「最善を尽くすこと」イコール「集中治療を行う」という図式があり「ケアを行う」ことは二の次になっています。老・病・死に対しては「治療」よりも「ケア」が有効であることがもっと強調されなければならないと痛感しています。

とかくこの現代は効率や合理性あるいはスピードが求められます。この観点からすると「治療」にだけ価値があり「ケア」は無駄であると考えられがちです。同様の考え方で在宅介護は「時間を取られる。」「仕事ができない。」「良くなるわけではないのに。」「何の意味があるのか?」ということになってしまいます。更に言えば「しんどい。」「つらい。」「汚い。臭い。」という負のイメージがつきまとうかもしれません。本当にそうなのでしょうか?

私は老・病・死を目前にした場合「ケア」にこそ効率や合理性を感じます。薬や処置でとりきれない苦痛を何とするか?死に対する不安をどうするか?「治療」には自ずと限界があります。自分自身がどのような形で最期を迎えるかはわかりませんが老・病・死を目前にした時には苦痛や不安を伴うであろうことは間違いありません。もちろん薬や処置でその苦痛や不安を取り除いてもらいたいと思いますが究極的には「誰かがそばにいてくれる。」「自分を思いやってくれている。」ということだけで大丈夫なのではないかと思います。「ケア」を通して「思いやり」が感じられれば安心できるでしょうし最終的に自分の死を受け入れることができるかもしれません。

そして、在宅介護をする意味は非常に大きいと思います。残念ながら病院や施設は集団生活の場なのでその人のペースで生活することはできません。食事や睡眠の時間も決まっています。自分以外にたくさんの患者さんや入居者さんがいるので自分を中心にということもできません。住み慣れない異様な環境で生活を送ることで心細さを感じることもあります。在宅介護をするということは、その人を中心とした生活が送れるという意味において、そして住み慣れた環境で安心が得られるという意味において「最高のケア」と言っていいでしょう。
 

「おうちに帰ろう。」

私は10年ほど前に地方中核病院の救急外来を担当しておりました。その中で救急から入院となった高齢者の願いはいつも一つでした。治る病気でも治らない病気でも「早くおうちに帰りたい。」ということでした。つらい時ほど「おうちに帰りたい。」と思うのが人情です。住み慣れた家で家族と暮らしたいと思うのが人間です。環境の変化について行けず入院中にせん妄状態になる患者さんはいやというほど見てきました。病院という環境が高齢者の心理に与えるストレスは甚大です。治療によって得られるメリットがそれを上回れば必要最小限の入院をすることもやむを得ませんがそのようなケースはむしろ少なかったと思います。

 

在宅介護に何の意味があるのか?つらくないか?については人それぞれと思います。現代的な効率や合理性の文脈で言うと「要介護状態の高齢者」には生産性がなく価値がないということになってしまいます。でもそんなことはありません。「どんな状態になっても人間としての価値は変わらない。」と考えている人を訪問診療で何人も見てきました。実際に担当した患者さんのご家族には、大切な人に貢献できる喜びを口にされる人もあれば、「ありがとう。」を期待するのではなくむしろ「ありがとう。」と声をかける人もありました。共通して「だだそこにいてくれるだけでありがたい。」という思いを述べられます。概して在宅介護の先に何か目的があるのではなく効率や合理性でもなく在宅介護をすること自体が目的といった感があります。

早期発見・早期治療という文脈から脱却しありのままを受け入れることができれば不安や心配はありません。そして無理な検査・治療ではなくケアにより苦痛を緩和することできます。グリーンクリニックはかかりつけ医として定期的に訪問診療を行い一人ひとりの患者さんの状態や希望を把握します。その時々で介護するご家族と一緒になって考えながら無理のない範囲での検査・治療を提供いたします。病気との付き合い方や日々のケアのやり方もお教えします。在宅での看取りもしています。「おうちに帰ろう。」の一言を待っている人がいます。グリーンクリニックは「老・病・死を受け入れてケアしていく過程」「最期まで自宅で自分らしく生きていくこと」をお手伝いします。

 

 



更新日:2023-09-07